齋藤 孝著 「使える読書」 朝日選書

この本の面白いところは、一冊の本を採り上げ「○○力」と評しているところ。
なんのために読書をするかを意識するようすすめているところであろう。


「使える読書」とはなにか?


<本をひとつ読んで、考えをひとつ得る、アイデアをひとつ得る、それをなにかに応用できる形で自分に刻んでおく>ということを目論むという著者。

それは、多くの場合結果的にキーワードとして刻まれるという。そのキーワードを著者の切り口、概念化してあらわしたのが<○○力>という言葉なのだろう。


<日常生活の他の事象と連結することが、読書の大きな喜びであって、理解の切り口を手に入れるということが読書のおもな狙い>です。

<本は読むものとして存在する。これがふつうの考えだけれど、僕はそうは思わないんです。それを読んで「書く」ためにある、「話す」ためにある>と考える著者。


この本は、ある仕掛けがされており頁をめくると一発でわかるのだが、その部分を読むだけで本の内容がある程度把握できるようになっている。ある意味親切な本だ。

著者がその本をどう読んだかということにも関心があるが、むしろ私にとっては気になる本を探せたという点で有効であった。また、使える読書をいままでしてきたか?ということもいささか反省させられた。

なぜならあまり意識して本を選ばず、ただ興味のおもむくままに本を選び読んできた自分。仕事に関するものならもちろんテーマをもって読むのだが、そうでないものは気の向くまま。


しかし振り返ってみれば(実際に過去の本を目にして気づいたのだが)、そのときそのとき自分が直面している問題や抱えている問題に関する本を読んできたことがわかった。それは無意識に行われているのだが確実にそのころの自分の心象をあらわしている。

だからどんなに人が「いい」と言おうと、「そのとき」の自分にとっていいかは別問題。こころが求めていないものは受けつけない(心が動かない)のかもしれない。


というわけで、<いずれ>読んでみたい本を覚書としてリストアップしておこう(笑)


『涙と日本人』 山折哲雄著 日本経済新聞社
『USAカニバケツ』 町山智弘 太田出版
『ふしぎな図書館』 文・村上春樹 絵・佐々木マキ
『脳内汚染』 岡田尊司 文藝春秋
ユダの福音書を追え』 ハーバート・クロスニー 日経ナショナルジオグラフィック

シュテファン・ツワイク作 「マリー・アントワネット」(上)(下) 岩波文庫

もう少し整理してから書こうと思っているうちに日が経ち、そのときの自分の感動や思ったことが消えていきそうなので、この際思い切ってまとまらない文章でも書きとめておこう。

…ということで書きます!(先に言い訳をば。。。苦笑)


先日本書の(上)の感想を書いたのだが、実に説得力のない文章となってしまった(面白いっ!ということしか伝わらない 汗)。

なので、ここで自分が本書をおもしろいと思う理由をつらつら考えてみた。思いつくまま挙げてみる。

①文章力(訳文力?←勝手に命名!)

②人物に対する解釈が深い

③資料をもとにより客観的な立場で書いている

④構成力


以下のような文章があった。

<彼女自身、フランス王妃マリー・アントワネット自身も、あの試練を受けなかったならば、自分が何者であったかを知らずじまいに終わったことであろう。なぜなら自分から自己をとくと見きわめつくそうという要求を感じないということ、運命が問わないかぎり、自分自身を俎上に乗せようといった好奇心を抱かないことが、中庸の人物の幸運、あるいは不運であるからである。彼らはおのれのうちにある可能性をむなしく眠らせておく。本来の素質も伸ばさないで萎縮させてしまう。(中略)およそ中庸の人物は、自分の本領をあますところなく発揮するためには、まず自分自身から叩きだされる必要がありおそらくはまたこうして初めて自分自身が予感し、知悉していた以上のものになりうるのである。そのためには運命は不幸以外の鞭を知らない。>(はしがきより)(高橋禎二・秋山英夫 訳)

個人的趣味にもよると思うのだが、なにかを予感させながらじわりじわりと攻めていく感じがたまらなくいい。こんな文章に接しただけでかなり脳天がくらくら(笑)。


正直に言うと自分自身、マリー・アントワネットについて個人的に興味を抱いたことがない。なので彼女に関する本は一度も読んでこなかった(贅の限りを尽くしたベルサイユ宮殿には興味があり実際に目にしたことはある)。

フランス革命 オーストリア皇女 マリー・テレサの娘 華やかで浪費家で夫(ルイ16世)がありながら違う男性と懇意になる 最後は断頭台にて処刑 栄華と地獄のふりこの大きい人生を歩んだ女性

……という認識しかなかった(汗)


しかし。


著者の手にかかるとそんな通りいっぺん(?)の知識は吹き飛んでしまう。多くの資料に接し(と思われる)、王妃擁護・弾劾の両極端に偏ることなく、ある一定の距離感を持ってマリー・アントワネットについて語られていく。

マリー・アントワネットを<ひとりの平凡人>として見立て(すでにそのことが自分にとっては新鮮!)、彼女の生涯の出来事・行動・手紙・証言などを通じてその時々の心情を推測し、著者自身の解釈が述べられる。それは彼女自身への解釈でもあり、著者自身の人への解釈を語っているようにも思える。

マリー・アントワネット、ルイ16世など人物のとらえかたが深く、どうしてそういう行動をとり結果どうなっていったのか。彼ら自身も無意識にやっていると思われるようなことにもメスをいれて分析していく。時に著者自身の哲学を交えながらー。

……それを読むのが楽しい。


上巻では、宮殿での王妃としての暮らしぶりが中心となる。自分の意思を強く持たず流れに身をまかせ浅薄な女性像が浮かんでくる。下巻ではスウェーデンの伯爵の御曹司であり青年貴公子フェルセンとの交友(愛人)関係、脱出劇、捕らえられてから処刑されるまでの彼女の心情や行動の変化をとらえて描き出す。

映画「マリー・アントワネット」(ソフィア・コッポラ監督)は本書でいうと主に上巻までを描いていたように思う。そこまでもそれなりに見どころはあるかもしれないが、私はむしろ下巻からのアントワネットが苦悩し自分の頭で考えて、自分に向き合うマリー・アントワネットの側面を知り驚かされた。


ひとりの人物にどう光を当てるのかー。

ありきたりの解釈ではつまらない。かといってあまりに新奇すぎてはついていけない。

(そして構成力とも関係すると思うのだが、その当てる順番がなんとも秀逸!)


客観的な資料を挙げたり、時にはあえて残存している資料を無視することにより(その理由もきっちり語られる)、マリー・アントワネット像をいろんな角度から読者に見せ新たな発見を与えてくれた。

非常に人間についての観察・洞察がするどいなあとうなりまくりでした。


<「不幸のうちに初めて人は、自分が何者であるかを本当に知るものです」という、なかば誇りやかな、なかば打ち驚いたこの言葉が、とつぜん彼女の驚いた口から洩らされる。まさにこの苦悩によってこそ、彼女のささいな平凡な人生も実例として後世にいきるところがあるという一種の予感が、彼女を襲う。そしてこのような一段と高い責務の自覚によって、彼女の性格は自分自身を超えて成長する。はかない形が崩壊する直前に、芸術品、永続的な芸術品が実現する。最後の最後の瞬間に、平凡人マリー・アントワネットはついてに悲劇の域に行きつき、その運命と同様に偉大となるからである。>


人間、臨終(いまわ)の際までわかりません……(苦笑)。


そして。
いち平凡な人物についてこれほど興味深く語ってくれた著者に完全にK・Oです(笑)