中島 義道著 「「私」の秘密」講談社選書メチエ


私は思いっきり勘違いをしていた。

中島氏の著作によれば
<他者とは単に私ではない「他の者」ではなく、「他の私(alter ego)」、私と同類の者、具体的に言えば「私とは何か」という問いにこだわっている者です。それは、まずもって私と類似の身体をもつ者として私に現れる>

他者を<自分以外の者>と単純に思っていた自分が何もわかっていなかったと知らされた。

哲学という学問を学校で学んだことは一度もない。自慢でもなんでもない。ただ漠然とした憧れがあった。

それは高校三年生の時。一度も話したことのない人だったが、存在感のあるきりっとした女性がいた。歌がとても上手で有名だった。その彼女の進学先が某大学の哲学科。おもわずうっとりとした。そして、私がすきな漫画家池田理代子氏も哲学科卒。

「哲学」という言葉は自分にとってものすごく甘美であこがれだった。

思い起こせば、その素地はもしかしたらもっと以前にあったのかもしれない。それは本書を読みながらやはり高校生のころ『純粋理性批判』(カント著)などを読んでいたことを思い出したからだ。その後、哲学関連の本はぽつりぽつりと読んでいたと思われる。

話がそれた。

他者だ他者。これはサルトルもつかっていた。「他者」としての女性を発見したとかなんとか(すみませんうろ覚えです)。(『存在と無』で確かめたほうがいいですね 汗)。

ふと思った。

「他者」とはテニスや卓球でいえば自分と互角にラリーをする相手。力の程度が違いすぎてはいけない。そして共に「どうしたら勝てるか(強くなれるか)という問い」をもっている者。そんなふうにイメージした。

中島氏はこうも言う。

<こうして、「私というあり方」は「私とは何か」という問い自体によって、あらかじめ輪郭づけられている。それはまさに、「私とは何か」という問いをみずからの問いとして受け止めることのできる能力をもつ者です。それこそ、私にとっての真正の他者、すなわち「他の私」なのですから。>

このほかに本書のなかで印象深かったところを引用する。


>>理想的な私というあり方もまた、私の過去了解から出発する。「私はあのとき何をなすべきであったか」という問いは、現に私がなしたことからはじめて意味づけられます。「私はいま何をなすべきか」という問いさえも、未来に仮想的<いま>を設定して、そのときから現在を見返して、「私はその時何をなすべきであったか」という問いのヴァリエーションとして意味づけられます。
 「私はいま何をなすべきか」という問いの原型もまた、「私はあのとき何をすべきであったか」という問いなのです。過去に現に何をなしたかを想起できない者は、そのとき何をなすべきであったかの判断も下しえないでしょう。そのとき何をなすべききであったかという判断は、そのとき現になしたことではない別の何かであるから、現に何をなしたかを了解できない者は、なにをなすべきであったかも了解できないはずなのです。
 よって、想起能力のない者は「いま何をなすべきか」と問うこともできない。「いま何をなすべきか」という問いは、単に<いま>現にしていることではない別の何かなのではなく、次の<いま>である未来の時点に仮想的に身を置いて、そこにおける結果から見返して、<いま>何をなすべきかという複合的構造をもった問いなのですから。そして、このすべてが、過去に現になしたことを想起する能力をもち、かつ現になしたことではない別の何かをなすべきであった、という形式を原型にしているのですから。
 仮想的未来に身を置いて、<いま>を「想起の形式」でとらえ返すとき、「いま何をなすべきであるか」という問いが生ずるのです。<<

ちなみに本書は<「私とは何か」と問う者に向けて>書いていると述べる著者。いきなり読者を限定している(笑)。サブタイトルには<哲学的自我論への誘い>。

まだまだわからないことが多々あるが(身体への転換など)、本書は個人的にはとても興味深かった。

そして、「私とは何か」という答えのひとつに「私というあり方」を問う者であるとも答えられる。まず根源的自我というものにたどり着き、そこからすべてを説明するという仕方で解明されるものではなく、「私」とは<日常的に知っているさまざまな私のあり方のあぶり出されるものである>ということを思った。

過去を想起することからすべてがはじまるー。