村上龍VS 村上春樹 「ウォーク・ドント・ラン」 講談社

英語をカタカナに直して表記したタイトル。値段は単行本でなんと850円!

……これはかなーり古い本です。1981年が第一刷。


近くの図書館があまりにも古く(蔵書・外観ともに)て、めまいを覚えた数年前ー。でもこの本を見つけた時だけは、「古くてよかった!ブラボー!」と叫びそうになった。


本書は今をときめく売れっ子作家のお二人の対談集です。この時はまだ村上春樹氏の方は長編を書いていない!お二人ともお若い!(当たり前です…)。


春樹氏のプライベートが少しですが垣間見られたのがうれしい。
その頃、龍氏がどんなことを考えて小説を書いているのかがわかって興味深い。


お互いが相手の小説に対して思うところを言い合っているのがとても面白かった。(それに対する答え方なども含めて)。



印象に残ったところを覚書。


<龍  ぼくはがまんする。だから、いいたいことがあるでしょう、それに至るまでにね、がまんして、ため込んでいるというのかな。で、ようし、もういいだろうと思うと、泣いちゃうわけよ、いい、いいとかっていいながら(笑)。だから『限りなく透明に近いブルー』でもね、本当は「あの朝」が書きたかったですよ。でも、朝を書くためには、その前にすごい苦しい、その「錯乱」のところを書かなきゃいけないんで、「錯乱」はやっぱり原稿用紙で二十何枚あるんですよ。朝のシーンというのは原稿用紙で四、五枚しかないのね。だからその四、五枚書くためにさ、すごく苦しい二十何枚も書く、錯乱の描写を思い出しながら。ようし、もういいだろうと思って書くと、本当に泣けちゃうの、泣きながら。ほんと、自分でもいいますよ、がまん、がまんと。原稿用紙のこっちの側のさ、白い紙に「がまん」と書いたりさ。


春樹 ぼくは書いてる途中で悪態ばかりつくのね。ちきしょうとか、くそとかさあ。で、女房おこるわけ、聞くに堪えないってさ(笑)。もう小説書くの止して平凡な夫に戻りなさいってさ。それでさ、何といえばいいかって聞いたららね、ちきしょうというときはワンワンといいなさい、くそっていうときはニャンニャンていいなさいって(笑)。やったんだよ、ばかばかしいよ(笑)。(後略)>



<春樹 (前略)うちはおやじとおふくろが国語の教師だったんで、で、おやじがね、とくにぼくが小さいころね、『枕草子』とか『平家物語』やらせるのね。でね、もう、やだ、やだと思ったわけ。それで外国の小説ばっかり読みはじめたんですよね。でも、いまでも覚えてるんだね、『徒然草』とか『枕草子』とかね、全部頭の中に暗記してるのね、『平家物語』とか。食卓の話題に万葉集だもの。おふくろはね、僕を生んでからは先生やっていなかったけどね。絶対に日本の小説読みたくないと思ったんですよ、小さいころ。まして日本語で小説書くなんておもいもよらなかったな。>


<春樹  ぼくね、あえて好きだといえば、小島信夫庄野潤三の初めのころありますよね、あのへんはわりに好きだった。何かの事情で学生のころ読んだんですよね。『アメリカンスクール』と『プールサイド小景』、あれはね、すごくおもしろかった。(後略)>


<春樹  (前略)大江さんというのはものすごくわかりにくい文章書くじゃない。大江健三郎さん。でも、あの人はね、だれにでもわかる文章をかきたいと思って書いているらしいのね。(中略)で、そう思えば思うほどああいう文章になっちゃうんだって(笑)。それ聞いてぼくはすごく感激したのね。そういうところって、やっぱり大江さんて偉いんだなあって思うのね。ぼくはああいう文章を好きで書いているのかと思ったら、べつにそうでもないみたいですね。最近いちばん感動した話です。(中略)僕にとっての名文というのは恥を知っている文章、志のある文章、少し自虐、自嘲気味ではあっても、心が外に向けて開かれている文章…というのは少し漠然としすぎているかもしれないですけれど、具体的にそれに近いものをあげていけば、スコット・フィッツジェラルドカポーティ上田秋成、少し質は違うけれどレイモンド・チャンドラー、そんなところかな。ヴォネガットもいいですね。(後略)>


対談を終えて、「村上 龍(春樹)のこと」というタイトルで、お互いに相手についての考察めいたことを書かれています。それもなかなかに読みごたえがあります。短い文章だけれどもー。


なかなかに興味深い読書ができました。