山田 太一脚本 「ありふれた奇跡」②

第二回目を観た。

前回に引き続きひきこまれた。


ストーリーもさることながら、「おおーさすが、深いなー」と思ったシーンがある。

それは、普段家は疲れた父親なのだが(仕事に疲れて帰宅しなにも言わずにビールを不機嫌そうに飲むような父親像)、帰宅前に子どもに見られたくない場面を見られてしまった……という後ろめたい気持ちがあるからなのか。。。


帰宅後やたら機嫌がよく、ちょっとした雑談(猫とネズミの話)を家族(自分の父親と息子)の背中に向かってするというシーンだ。
しゃべりたくてしゃべるというより、ネタとしてしゃべっている感じ(そういう演技がうまいな〜。風間杜夫さん)


……そうかそうか。不機嫌そうにしていてあえて家族としゃべろうともせず、「ふはー」なんて言っているというのは、案外自然な姿なんだなあ。

つまり、家族に必要以上に気をつかっていないという証拠。

それがいいかどうかは別として、その人が普段の姿、気を抜いた姿を家庭で見せるというのは安心感のあらわれなのかも。。。と思ってしまった。



もうひとつ印象に残ったのは、娘と母親との関係を的確にあらわすシーン。


娘(仲間由紀恵)が、母親(戸田恵子)の創作人形の発表会(展示会?)に行った際、会場でふたりきりで交わす会話。


母が娘の様子を心配して何かあったか尋ねる。娘は否定する。「ママは昔から○○ちゃんとけんかした?○○はどうなった?とか尋ねたわよね」
それに対して、母は「そうなっちゃいけないと思ったから人形を始めたの」と答える。そして「1年から1年半くらいずーっと聞きたかったけど聞けなかった」とも(会話は記憶にたよっているので、正確なものではありません。違っていたらごめんなさい)。

娘は社会人。しっかり仕事をしている。それでも親にとってはいつまでも子ども。

心配しているというメッセージを伝えるのは結構むずかしいものかもしれない。子どもはそれをストレートには受け取らない。親は何気なく言っている言葉でも、子どもはそれによって傷ついたり余計なメッセージを感じ取る(第一回目にもそのようなシーンがありました)。


……子どもが親のことばをストレートに受け取れるようになるには、ある程度距離がないとできないのかもしれない。もしくは子どもが親の立場になるとか。あるいは子ども自身が心理的に親から自立したときとか。。。などと思ってしまった。


親としてはとにかく存在すること。なにかあったら受けとめるよというメッセージをなんらかの形で伝えておくことが大切なのかなと思ってしまった。


もうひとつ面白かったのは、仲間由紀恵がおこってレストランを出るシーン。


店の人の態度にカーッとなって(加瀬の洋服をばかにされた)店を出たのはいいが、冷静になってあの時自分はどう見えていたか?みっともなかったのでは?と加瀬に矢継ぎ早に尋ねる。加瀬はかっこよかったと答える。それに対して照れくさそうなうれしそうな顔をする仲間。


……なんかすがすがしくなった。


まだ仲間や加瀬が死のうとした経緯や理由は明かされないが、二人の生い立ちや家庭環境などを越えたところでだんだんに結びつきが深まっていくというのが興味深い。


自分の言った言葉に対してあとから言い過ぎたとかどういう気持ちで言ったのだとかをお互いにメールで伝え合う。ことばを大切にしながらもそれだけを手がかりにコミュニケーションしていくことのむずかしさを感じた。


ざーっと思いつくままメモしてみました。自分の覚書です(笑)