村上 春樹著 「走ることについて語るときに僕の語ること」 文藝春秋

自分はランナーではない。なので本書には興味は持っていなかった。著者の作品は好きだけれどもー。しかし何かの雑誌で、ある人が本書について「走ること」以外の箇所で刺激を受けたというような話が載っているのを読み俄然興味がわいた。さっそく借りて読んでみた。


結果、とっても面白かった。自分にとって「走ること」はあまり身近ではなかったが、読後「走ってみたい!」と思ってしまった(←単純なやつ)。実際ジムで走ってはみたが(手足に負荷をかけるマシン)、4キロ(約30分)走っただけでギブアップ(苦笑)。フル・マラソンいやハーフ・マラソンも遠い道のりです(とほほ)。

という冗談はさておきー。


一番驚いたのは、第6章の北海道サロマ湖のマラソンで100キロ走ったということ。<脚の筋肉の疲れをカバーするために、手を強くスイングしすぎたせいだろう。翌日になって右の手首が痛みを訴え、赤く大きく腫れ上がった。>という。もうこれだけですごいと思う。そして辛い思いをして走っている最中に考えたことが書いてある。かなり哲学的だ。その部分が興味深かった(p.155)。


……という「走り」に焦点化したことで驚きやら発見が多々あった。

そして自分が本書を読んで一番感じたのは、これは村上氏の「哲学書」であるということである。


特に印象に残った個所を覚書として記しておく。(青色は引用部分)


・自分は何もしないで放っておくとじわじわ太っていく体質である。(中略)→太りやすい体質に生まれたことは、かえって幸運だったかもしれない。(中略)→体重を増やさないためには、毎日ハードに運動をし、食事に留意し、節制しなくてはならない。(中略)(中略)→結果的に身体は健康になり、頑丈になっていく。老化もある程度は軽減されるだろう。(中略)→ポジティブな方向に考えるべきではないか。赤信号が見えやすいだけラッキーなのだと。まあ、なかなかそんな風には思えないですがね。


このような観点は小説家という職業にもあてはめられるかもしれない。(ということでその後、生まれつき才能に恵まれた小説家とそうではない小説家を比較して述べられている)


人間は基本的に不公平なものである。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所にあっても、そこにある種の「公正さ」を希求することは可能であると思う。それには時間と手間がかかるかもしれない。あるいは、時間と手間をかけただけ無駄だったね、ということになるかもしれない。そのような「公正さ」に、あえて希求するだけの価値があるかどうかを決めるのは、もちろん個人の裁量である。


この一連の思考の流れが個人的に興味深かった。


・人間というのは、好きなことは自然に続けられるし、好きではないことは続けられないようにできている。そこには意志みたいなものも、少しくらいは関係しているだろう。しかしどんなに意志が強い人でも、どんなに負けず嫌いな人でも、意に染まないことを長く続けることはできない。またたとえできたとしても、かえって身体によくないはずだ。

上の文章は、毎日走り続けている(←20年以上らしいです)と言うと、そのことに感心して「ずいぶん意志が強いんですね」とときどき言われることを受けての文章である。


・個人的なことを言わせていただければ、僕は「今日は走りたくないなあ」と思ったときには、常に自分にこう問いかけるようにしている。おまえはいちおう小説家として生活しており、好きな時間に自宅で一人で仕事ができるから、満員電車に揺られて朝夕の通勤をする必要もないし、退屈な会議に出る必要もない。それは幸運なことだと思わないか?(思う)。それに比べたら、近所を一時間走るくらい、なんでもないことじゃないか。満員電車と会議の光景を思い浮かべると、僕はもう一度自らの士気を鼓舞し、ランニング・シューズの紐を結び直し、比較的すんなりと走り出すことができる。「そうだな、これくらいはやらなくちゃバチがあたるよな」と思って。もちろん一日に平均一時間走るよりは、混んだ満員電車に乗って会議に出た方がまだましだよ、という人が数多くおられることは承知の上で申し上げているわけだが。


こういう発想はいいなあと思った。自分も何か辛いことが生じたらこんな風に何かと比べてそれよりはいいじゃないかと考えてみたい。


・しかし何はともあれ走り続ける。日々走ることは僕にとっての生命線のようなもので、忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由は本の少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。


・僕の考える文学とは、もっと自発的で、求心的なものだ。そこには自然な前向きの活力がなくてはならない。僕にとって小説を書くのは、峻険な山に挑み、岸壁をよじのぼり、長く激しい格闘の末に頂上にたどり着く作業だ。自分に勝つか、あるいは負けるか、そのどちらかしかない。そのような内的イメージを念頭に置いて、いつも長編小説を書いている。


・職業的にものを書く人間の多くがおそらくそうであるように、僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章をつくりながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思考を深めていく。


・効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。


小説家にとってもっとも重要な資質とは何か?というインタビューではもっとも重要な資質は「才能」。次に迷うことなく「集中力」。その次に必要なものは「持続力」と記されている。後の二つはトレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができる。それは筋肉の調教作業に似ているという説明がその後されるのだがその部分がなかなかに面白かった。


本書を通じて村上氏の人となりや性格・性質、「書くこととは」「小説家とは」などの考えがうかがい知れてとても興味深く読み進められた。