中島 梓著 「コミュニケーション不全症候群」 ちくま文庫

これが1991年に書かれたとは思えない。それほどに今の日本の現状の萌芽を見通しておられる著書である。ご自身の拒食症という体験を通じてその当時の日本人の危機感や問題点をいろんな側面から観察・分析し書かれている。

読了後、そのままそれらの問題は表面化し大きな社会問題と化しているのが現代日本であるといえるのではないか?という個人的感想をもった。


さてその問題とは何か?


それをひとことで「コミュニケーション不全症候群」と著者は名付ける。


それはいったいなにか?


<コミュニケーション不全症候群、とここで仮に私は名付けてみたが、それは決して特殊な精神的症状のことではなくて、むしろ現代にきわめて特徴的な精神状況のことである、とあらかじめいっておかなくてはならない。それは端的にいうと、
一、他人のことが考えられない、つまり想像力の欠如。
二、知合いになるとそれがまったく変わってしまう。つまり自分の視野に入ってくる人間しか「人間」として認められない。
三、様々な不適応の形があるが、基本的にはそれはすべて人間関係に対する適応過剰ないし適応不能、つまり岸田秀のいうところの対人知覚障害として発現する。>

れっきとした病態をしめすわけではないが自覚する必要があると説く。


例えば、テリトリーの喪失と正常な距離感覚の喪失が日常的になっている。それらに適応すること自体が問題である、と。しかし適応せねば生きてはいけない。(実際問題、満員電車での密着にいちいち反応していたら身がもたないだろう。)



著者のこの指摘を読んで、自分もそれらが喪失していたということを思い出した。


それは、異国で何年か暮らして日本に帰国した際に非常に違和感があった。それがスーパーマーケットでの買い物だ。
とにかくこわいのである。人が。ぶつかってきそうでー。実際ぶつかってこられたし自分も他人にぶつかってしまったのだが。

……しかし。そんな状況になっても相手とほとんど言葉をかわさない。あやまることもしないー。異国(米国)では、ほんの少し触れただけでも「失礼」と言葉をかわした。また目が合うとにこっとした。お互いにー。


とはいえこのような異国での生活体験がなければスーパーでのこの一件も別段とりたてて何か思うことはなかっただろうと思う。邪魔だとも悪いともー。実はその感覚こそがこわいのかもしれないと本書を読んで痛切に感じた。そういう感覚が蔓延しているそれが現代という病のひとつ。


そして、そこから人々がどのような方向に歩き出したかー。それは現代を見ればその一端がうかがえるように思える。


精神的・物理的なひきこもり。無差別に他人を傷つける。公共の場での化粧。フリーター・ニートの増加。拒食症・過食症。ダイエット症候群…。

どれも一見すると関係性がないように見えるものでもそれは根っこのところでつながっていると指摘する(本書では、上記の前者3つは明記されていないが)。


<さよう―結局のところ、コミュニケーション不全症候群とはモラトリアム・シンドロームの別名にすぎないかもしれない。しかしモラトリアムはすでに社会のなかに組み込まれ、フリーター(フリーアルバイター)などという語までも常識となった。そのようにして社会に組み込まれたモラトリアムの症状は、既に適応不全の若者たちをうつしだすことはできないのである。というか、それらの人々は、社会に組込まれないための概念を永遠にさがしてさまよい続けるオランダ人のようなものなのだ。就職が現実との境界線として浮上してくれば、彼らはモラトリアムによってそれを回避しようとはかりはじめる。アルバイターというかたちで社会を彼らを容認してしまうと、彼らはおタクになる。おタクも社会のなかに受け入れられたら、彼らはまた新しいアウトサイダーとしての存在様式を探しに旅立たねばならぬ。彼らは社会とのボーダーにつねにたっていないわけにはゆかぬ。結局のところ彼らは葛藤それ自体のはざまに立ち尽くすことで自分の自我を形成してしまうタイプの若者たちなのだ。>(美少年なんか怖くないより)



<彼女は自分を愛していない。だからいま自分がどのような状態にあろうとかまわないのだ。だが社会から自分が拒否され、はじきだされることを異様に恐れている。もし自分に対して本当の興味と憐憫が持てたならば、彼女はおそらく「ノイローゼになったら困る」からではなくて、いま「快適でない自分」をどうしてなのか、その原因をつきとめ、もっと自分を快適にしてやるために努力しなくてはならないと感じるだろう。(中略)コミュニケーション不全症候群の患者たちは、他人の存在を知覚できなくなるだけではない。自分が本当は何を望んでいる、どういう存在であるのかもまた知覚できなくなるのだ―それは当然である。なぜなら「自分」というものは認知の中核であるからだ。認知と知覚の主体がまず成立していないのだから、他人を認知し知覚できるはずはないのである。>(コミュニケーション不全症候群のための処方箋より)


ではそのような時代の子たちはこれからどうしていったらいいのか?


それに対して著者の考えが書かれている。


キイ・ワードは<時間>を受け入れることにあるという。我々がモータルな存在であり、年老いてゆくものであり、変化してゆく存在であるということ―我々にとって存在の基本は時間とわかちがたく結び付いている。

そして大切なことは、自分を直視すること。自分の苦しみを認識すること。そうする勇気をもち続けることが大切だと説く。そしてそれらは必ず乗り越える事ができると最後に保証されている。



……さて。本書が書かれてすでに17年ー。そのころの社会にはなかったもの(もしくはそれほど多くはなかったもの)が今現代に持ち込まれている。それがネットと携帯電話だ。


コミュニケーションをどうとるかという課題が増し、世代間の感覚も相当にズレが生じてきている気がするー。
道具が増えることで便利になったぶん、それを使いこなすことで汲々としている。。。


余談だが、本書を読んではからずも自分自身の本質について思い当たる部分があり、言語化できなかったものがすっきりしたという感を抱いてしまった(汗)。


(なんだかまとまりのない文章になってしまいました。あしからず。。。)