外山 滋比古著 「少年期」 展望社

外山氏のガクジュツ的な著作は読んだことがあったが、このような個人的なことが書かれているものは手に取ったことがなかった。たまたま図書館で目にしたので読んでみた。とくに個人的興味があったわけではなかったのだがー。


……しかし……。


読んでみたらとてもよかった。著者にますます好意をいだいてしまった(笑)。


……といってもも齢八十をいくつか越されている方なのですが。。。


本書の内容は、題名から想像がつくように著者の少年のころの記憶の断片のようなものがいくつも載せられている。思い出を美化するわけでもなく淡々と、そしてすこし照れながら(?)書き進められている(ように思われた)。


子どものころのくやしかったこと、寄宿舎生活での同級生の憔悴しきった姿を目のあたりにしたこと、母親・父親・教師・おじさんとの関わり合いなどの様々な体験とともに、それらを通してご自身が得られた知恵についても言及されている。時代は違っても人間の成長する段階において学ぶべきこと、感ずることはある面共通するのだなあと思った。また著者はその後それらの経験を生かしてこられたことが伝わってきた。



以下、こころに残ったところを引用。


<あるとき、人にだまされるのは、だまされる側がだまされやすいからで、それをさけるには、幼いときに、だまされて口惜しい思いをするのがいちばんである。危険をさけるには、危険を経験するよりほかに手はない。こどもには適度の危険教育は必要ではないのか、と考えた。そして五銭のレントゲンのことを思い出した。(中略)このレントゲンで五銭をだましとられたが、人のうまい話は、めったに乗ってはいけないことを身をもって知ることができた。その後、いろいろないい話にひっかからずにすんできたのは、そのおかげである。そう思えば、あのじいさんを恨むのはお門ちがいだ、と考えるようになった。>(五銭のレントゲンより)


候文は生の感情を殺す。文法のテンス、現在、過去形すら明確に示されない。はなはだ不自由のように見えて、その実、微妙なことを伝えるのに適している。かつて高貴な方に仕えていた高官が、断りにくいことを断るには候文に限る、とのべているのを読んだことがある。(候文より)


<いわゆる頭のいい人は脚の早い人のようなもので、人より先に人の行かないところへ行き着くかもしれないが、途中にある大事なものを見落とすおそれがある。富士山の裾野まで来て、そこから頂上をながめて、引きかえしてしまうかもしれない。頭の悪い人、脚ののろい人は、ずっとあとからおくれて来て、わけもなく、頭のいい人の見すごした宝物をひろっていく。富士山はやっぱり登ってみなければわからないのである。登ればふもとでは思いもよらない光景がひらけている。そんな調子で、頭の悪さを評価するのである。ずっと頭がよくないと思ってきた自分もこうしてみると、頭のよい人間のできないことができるかもしれない。漠然としてではあったが、そんな自信のようなものをもった。>(あたまより)


最後の章の「まんじゅうの涙」には、恩師のかたとのエピソードが紹介されている。これには思わず落涙した。この(森)先生がいらっしゃらなかったら。。。と思うと全然関係ない私まで森先生に感謝である。この世に学者トヤマシゲヒコという人を送り出すチャンスをひとつ与えてくださったということに。。。


また氏が寺田寅彦氏の文章に強い衝撃を受けたというくだりを読み、思わず自分の経験と重ね合わせうれしくなってしまった。


似たようなタイトルで『中年期』(みすず書房も同時期に借りておいた。本書がおもしろかったので引き続き読んでみた。これまたおもしろい。近々記事に書きたいと思っている。