外山 滋比古著 「中年記」 みすず書房

こちらは『少年記』(展望社)と少し色合いが違って個人的エピソードというよりも、<研究者>に至るまでどんなプロセスを経てきたかが中心に書かれている。


ご自分のかかえるテーマ(文学とは何か)とどう付き合ってきたか、付属中学校での英語教師としての経験、英文学雑誌の編集長としての12年、大学教師のかかえる問題、友人らとの勉強会など時間を追って書かれており、とても興味深く読んだ。



初めからカクとした理論があるわけではなく、外国語の研究を進めるうちに日本語についても深く考えるようになったこと、多くの書物や文献から得た着想をもとにご自分の論へと収束されていることがわかった。


またその時々で、人のことばを鵜呑みにせずご自分の頭で考え結論を出され実行されている。そしてその結果。。。ご自分のとった道を100パーセントよかったとはせずに、含みを残されているところがなんともいえず好感がもてた。


特に印象深かったのは「虚言人」。以下引用してみる。


< 解釈は、文章のもとの意味、書き手が考えていた意味を、そっくり復元することではない。実際、書き手の意図した意味が十分はっきりことばで表現されていることはあり得ない。どんなに細密な描写であっても、かならず、書かれていない部分を含んでいる。その空白を、読み手の判断で適宜、補充してはじめて、”意味”がはっきりすることになる。読むというのは、書いてあることを、鵜呑みにすることではなく、自分なりに咀嚼、消化した上で、自分の意味をつくり上げることにほかならならい。ただ受動的に受け取るのではなく、自分をなにがしか加えて、解釈の読み手をつくる。そう考えると、「あるがまま」に読むことが不可能であるとともに、読者はひとりひとり違った意味を創り出していることが理解されるようになる。一般に読むというのは、受け身の作業と看做されているけれども、解釈の主体としての読者は、解釈にもとづいて自分なりの意味を作り出す、クリエイティヴな存在であるということになる。そのクリエイティヴなところは書き手のそれとはまったく異なっているけれども、個性を投入しての意味の追究は、充分に創造的である。この点を見落としてきた近代文化は、書き手、作者の意味のみを認める誤りを犯したが、そのこと自身に気づくこともなかった。>


以上、長々と引用してしまいました。すみません。。。


他にも、著者が影響された書物が紹介されておりそれらも一度読んでみたいと思った。