向田 邦子著 「幸福」 岩波現代文庫

本書は「向田邦子シナリオ集 Ⅲ」とある。全6集あるそうである。先日本書の存在を初めて知り、未読であったのと巻末の附録(池田理代子氏との対談)にひかれ即購入した。かなり分厚い本なのだが(574ページもある!)シナリオ本なので、一ページに字がびっしりつまっていないためするすると読める。頭にそのシーンを思い描いてドラマを組み立てるのがなかなかおもしろい。本書の後ろにその当時のドラマの配役がのっており役者さんの表情などを思い浮べるのである。ただし今はあまりTVではお目にかかれない人もいるので、そのようなことができるのはある年代の人に限られるかもしれない(苦笑)。


台詞だけ読んでいると時々山田太一氏のドラマとイメージが重なってしまうことがあった。町工場のシーンとか家の様子とか。また高齢の男性に笠 智衆さんが配役されているのでそのせいもあるのだろう。まあ簡単に言ってしまえば昭和という時代が感じられるという共通点があるのだろうけれども。


それにしても引き込まれた。そしてうならされた。うまいうまいうますぎる!本書を書いていたころ、ちょうど直木賞受賞(短編小説「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」)と重なり、小説のほうでも評価されている方であるにしても。シナリオといういわば台詞だけで勝負する(そうなのか?)世界もものすごくいい。


何がそんなにひかれるのだろう。。。とつらつら考えてみた。素人の思いつきなので専門的なことはわからないが覚書として書いてみる。

・短い言葉のなかに含蓄のある言葉がたびたび出てくる。それは、主にナレーター役(踏子)の言葉。
・登場人物にかかわりのある人が次々と出てくるのだが、わかりやすく説明してあるため、場面が変わってもまた何かしらの事件が起こっても話の流れにのることができる。 →構成の巧みさ?
・あからさまな表現はないのだが、二人の関係ややりとりの様子が鮮やかにイメージすることができる→組子と数夫の様子や数夫と太一郎の関係などなど


そういうシナリオとしての技巧的な部分もさることながら、一番にひかれるのは、やはりテーマの深さと登場人物の魅力だろうか。


本書のテーマはいろいろに読めると思うのだが、自分は「兄弟(姉妹)」のあり方として読んだ。(巻末の解題を書いた人はテーマのひとつとして「性愛」を切り口に書いていらした)。


本書を読んでいない人もいると思うので、あらすじを書いてみる(本書裏表紙より)

出世のために兄が捨てた婚約者との、たった一度の過ちを胸に秘める弟・数夫。あれから十年が経ち、いま下町の工場で働く数夫に好意を寄せているのは、その妹・素子である。ところが偶然この町に因縁の女性が舞い戻ってきた。何事にも無口な数夫と、心のゆれを隠せない素子。数夫を疎ましく思う兄・太一郎と、対立する二人の兄の間で気をもむ末妹・踏子。さまざまに交錯する愛を描き、素顔の幸福とは何かをしみじみ伝える。


兄と弟の立場からくる長年の確執。姉と妹の相手への複雑な思い。「恋愛」というものを通して兄弟(姉妹)の関係が浮き彫りになってくる。太一郎と数夫の性格は対照的に描かれているのだが、数夫の煮え切らない態度が個人的に好きにはなれなかった。しかしこの作品を読み通していくにつれ、彼がどうしてそのような態度をとるのかがわかり、また数夫の変容が見られ最後はすっきりした。


組子と素子の関係。こちらはなんでも一生懸命である面不器用な素子が姉をうらやむ場面があるのだが、その気持ちを姉が受け止める。そして結果的に恋敵となってしまったときにとる姉・組子の行動が潔くて個人的にはすき。(ここでどんな行動をとったかを書くのは忍びないので割愛します)。


同性の兄弟(姉妹)の関係について考えさせられた。また兄弟だからといってどこまで自分の思いを通したり逆にひいたり(遠慮)したりするものなのか。自分は異性のきょうだい(弟)しかいないので、そこらへんのことは未知の世界なのだが、生まれた時から身近にいる存在なのでその思いも熱くひとかたならないものがあるのだろうと推測する。兄弟(姉妹)でいがみあうのはつらいことだがそうせざるを得ない状況も生まれることもあるだろう。そのどちらかが強く一方が弱いこともあるだろう。しかし長く生きていると、やはり人生浮き沈みがある。その立場が逆転することが必ず生ずる。そんなとき自分の弱さをさらけ出し助け合うことができるのも兄弟(姉妹)というもののよさなのかもしれない。


また夫婦のなにげない日常について印象深い台詞があった。以下の太一郎の台詞である。


<「夜、うちへ帰って、カギあけて、中入って真っ暗な部屋に電気をつけてー誰もいないところに一人ですわってると徹底的とか完璧ってやつは、一体、なんだったのかと思ったね。『今日は暑いわね』とか、『うすら寒いんじゃないの』とか、オレはそういうはなし、無意味できらいだったんだ。言ったところで涼しくなるわけじゃなし、もっとほかにするハナシがあるだろう。そういって怒ったりしてたけどー家族か、家庭ってやつはそれだったんだなあ。オレからみりゃ役に立たない愚にもつかないやりとりーそれが積み重なって、夫婦の歳月になる。気がつかなかったねえ。気がついたときは、遅いんだよ」>

日々のなにげない日常。失ってみて初めてわかるそのいとおしさ。そういうものが伝わってくる。


そして踏子の最後のナレーション。


<「太一郎兄ちゃんは、もう成田を出発した頃です。ひとりは、大きな傷だらけのよそゆきの幸福です。ひとりは、ささやかな、だけど、ミッチリと実のつまった素顔の幸福です。素顔の幸福は、しみもあれば涙の痕もあります。思いがけない片隅に、不幸のなかに転がっています。屑ダイヤより小さいそれに気がついて掌にすくい上げることの出来る人を、幸福というのかもしれません」>」


太一郎と数夫の生き方を通して「幸福」というものを考えさせられた。今いる場所でどれだけ自分にとっての幸福をみつけることができるのか。その幸福の中身は人によって様々だろうけれども、それを見つけていとおしむことができれば「幸福」といえるのだろう。そんなことを思った。


……本書を読んでいる間、実に「幸福」でした。向田さんありがとう!……