向田 邦子著 「冬の運動会」 岩波現代文庫

読後せつない。うるっとくるし、ため息なんかも出る。でも何かをやり遂げたようなさわやかな気持ちにもなる。
それは本作品の男たちとともに生きた気がするからだろうかー。


<本作品のあらすじ>(裏表紙より)

万引きをした過去を持ち、社会的地位のある父や祖父から、できの悪い奴と疎まれる菊男。彼は、その冷たい家庭よりも、たまたま行き会った靴屋夫婦の元に実の息子のように通うようになる。家族とはいったい何なのか。現実の家族ともう一つの家族が交錯したとき、厳格に見えていた祖父、そして父も、どこか温かな場を求めて走っていたことがわかったのだった。男たちの「季節外れの運動会」の行方と、それをめぐる女たちの愛のかたち。

主人公は、就職が決まらず親が世話してくれた就職先もドタキャンした菊男。彼がナレーター役でもある。その言葉が含みがあってなかなかいい(後で引用します)。北沢家の親子三代(男性陣)は好き勝手なことをしている。それをうすうすわかっていながらも、問い詰めることなく(釘をさす程度)一家の主婦・あや子は家庭をどうにか機能させている。そんなあや子はただ者ではない(笑)。包容力と忍耐力(?)があるのだろう。そんなあや子であるからこそ、この三人の男たちは戻ってくるのである。この家へ。家では見せない面を他では見せながら、ひとまわり成長してー。



菊男の声(ナレーター)の部分よりいくつか心に残ったところを引用する。


「メシを食う、というのは、家族であることの証明みたいなもんだ。どんなに、腹いっぱいでも食べなくてはならない。またしても納豆、というのは(ぐうっと突っかえる)―これこそ天罰というべきだろう」(p.63)



「生まれた時から住んでいるうちだった。見あきた眺めの筈なのに、彼女と一緒に見ると、壁の色はこんなだったのか、こんな絵がかかっていたのかー目に入るものすべてが初めてみるように新鮮に見えた。愛というのは、こういうことなのかもしれない」(p.165)



「こういうことがあると、一年つきあったぐらい親しくなれる。ぼくは、今日の、みっともないアクシデントに感謝したい気持ちだった」
(p.195)



「マニキュアの色は、あの人が言っていた西瓜の色だった。じいちゃんは、冷たくこわばってしまった指をいとおしむように塗っている。堅苦しく生きてきた七十年の生活の終わりに、ほんの短い間訪れた人生の春に、別れを惜しんでいる」(p.420)




「それにしても、何という狭さだろう。ここに靴屋があって、口うるさいおやじがいて、ふとったおふくろが坐ってて、湯気の立つモツなべと、本当の『おやじ』よりも情愛のこもったやりとりがあったことが嘘に見えるほど狭いのだ。大きくふくらんだ風船がパチンと割れた時、てのひらには小さくしぼんだしわだらけのゴムの切れっぱししか残らないように、夢のかけらは、悲しくみすぼらしいものなのかもしれない」(p.182)




「隣に坐って酒をのむおやじの手は、オレの手とそっくりだ。指の形、爪の大きさ。嫌になるほど似ていた。そして、おやじとオレは同じだということにも気がついた。二人とも、かたくなで、過ちを許さない父をもっている。憎みながら憎み切れない。心のどこかで、愛したいと思いながらも、テレてしまって、素直に愛せない。二人ともあと、何も言わずに二はいずつ飲んだ。そして、黙って、うちへ帰った」(p.471)




「夕方になると、男たちが帰ってくる。船久保さんは、再婚した。じいちゃんの、あの人は四角い白い箱になって弟の胸に抱かれて田舎へ帰った。オレの靴屋も消えてしまった。行き場のない男たちは、少し元気のない足どりで、ゴールに入ったのだ。季節外れの運動会はもう終わったのだ」(p.484)




「じいちゃんは前と同じように威張っている。おやじとオレは、あまり口を利かない。妹は、いつも何か食べている。おふくろは、例の骨董品はどこへ仕舞ったのかレースを編んでいる。茶の間は、なにひとつ変っていないようにみえる。だが、おたがいに見せあった恥の分だけ、いたわりとあたたかみが生まれたような気がする」(p.486)



一家の主婦・あや子が入(ニュウ)が入った骨董品を見ながら直子(娘)にこんなことを言っているシーンがある。


あや子「……貫入といってね、焼き物のひびのことを言うのよ。年代が経てば―どうしても、欠けたり、ひびが入ったりしてしまうのね」
  あや子、茶碗を手にしてゆっくりとしゃべる。
あや子「入が入ると、価値が下がるって嫌う人もいるけど、趣があって悪くないって言う人もいるの……心なく扱えば、カシャンと割れてしまうけど、いたわって使えば、まだまだ大丈夫なものなのよ」


この台詞があや子の男性たちへの思いを象徴的に表しているように思える。


修羅場が何回か訪れどう展開していくかハラハラどきどきさせられた。会話にユーモアあり、けんかあり、軽妙なやりとりありでその場面が目に浮かんでくるようだった。特に靴屋の夫婦と菊男のやりとりが何とも言えない。靴屋のだんなさんの一本筋の通った生き方もいい(大滝秀治さんが演じてらっしゃるのを思い浮かべながら読みました)。


ギリギリの土壇場になったとき何を優先させるか。家族なのかそれ以外の居場所なのか。その向き合い方でその人にとって何が大事なのかがわかるのだと思った。口で言うのではなく行動(無意識な行動も含め)。家族を本当に捨てられるのか。その覚悟があるのかないのか。そこらへんが極めどころなのかもしれないと思った。