モーム著 「サミング・アップ」 岩波文庫

自分は再読はしないと長いこと思ってきたが、どうもそれは間違いだったことに気づいた。意識的にはしていないが、結果的にしていることが判明したからだ。

そして本書。『サミング・アップ』も過去に違う出版社から違うタイトル(!)で市場に出回っており、自分がそれを所持していたことがこれまた判明(汗)。きちんと読んだのか読まなかったのか。これまた全く不明。モームがイギリス人であるのにフランスのイメージをずっと抱いていた理由がわかった。ので、もしかしたら本書は読んでいたのかもしれない。大昔(高校時代)に『要約すると』(新潮文庫)でー。

モームといえば『人間の絆』だ。本書解説(行方昭夫・本書訳者)では「ペルシャ絨毯の哲学」と称されているのだが、実をいえば自分もここの一節に感銘しモームにはまったのだった。

以下、長いが解説より引用してみる。

<人生いかに生きるべきか。欧米の読者と較べると、日本の読者には、文学に生き方の指針を求めようという気持ちが強いようだ。その点、『人間の絆』で主人公が様々な体験と思索の後に到達する「ペルシャ絨毯の哲学」は、日本の読者、とりわけ混乱した戦後に生きる読者に強く訴えかけた。人生には意味などない、そうだとすれば、どのように生きようと各個人の自由であるとし、「ペルシャ絨毯の織り手が精巧な模様を織り上げてゆく際に意図するのは、単に自らの審美眼を満足させるだけであるのと同じように、人もまた人生をいきればよい」という考え方である。つらいことや悲しいことも絨毯の模様を複雑で豊かなものにするのに役立つ、という考えは、戦後の厳しい時代を生きる日本人には歓迎すべきものだった。>

戦後、日本でモームが人気だったことを初めて知った文章だった。

その点、今はどうなのだろう?

本書は2007年2月に第1刷。同年4月に第3刷。この数字はなにを表しているのか?

新潮文庫版のはそういえば書店でみかけない。自分も持っていたのに、タイトルが違うだけで同じ本と気づかず買ってしまいあとで気づいた(汗)。まあ、誤って買った人ばかりではないだろう(当たり前だよ!)。実際新しいだけあって字も大きく読みやすいし、解説も充実しておりモーム略年表も巻末にある。

モームが劇作家であったこと。彼の生い立ち、家族、劇作家時代の苦労、文章修業、人生についてなどなど詳しく知ることができ大変興味深かった。簡潔で飾りがなくて、書きたいことと向き合う姿勢がよかった。とくに、自分の欠点などもさらりと書いてしまうところ、人によったら少々傲慢に見えることもあえて隠さず書き進めてしまうところがいい。こうやって、サマセット・モームという人・作品がつくられていったんだなあ。。。という秘密が明かされていく気がして面白かった。(実際、彼が読んできた本なども紹介されている)

本書は随想の体裁をとり、著者がおもいつくまま書き進めているので多少わかりづらい部分があるかと思う。しかし巻末の解説で著者にかわって(?)内容を章ごとに分類してくれているので、とても親切な本だ。

最後にこころにのこったところを引用。

<教養の価値というのは、人格の影響である。性格を高め強めることがないのなら、何にもならない。教養は人生に役立つべきものである。その目的は美でなく善である。誰もが知るように、教養はしばしば自惚れを生じさせる。(中略)私はが思うには、千冊の書物を読んだのと、千の畑を耕したのと、どちらが高級かというと、差などない。絵について正確な解説が出来るのと、動かない車の故障箇所を発見できるのと、どちらが高級という差はない。いずれの場合も、特別な知識が使われる。知識人が自分の知識だけが高級だと考えるのは愚かな偏見である。>


<人間を観察して私が最も感銘を受けたのは、首尾一貫性の欠如していることである。首尾一貫している人など私は一度も見たことがない。同じ人間の中にとうてい相容れないような諸性質が共存していて、それにも拘わらず、それらがもっともらしい調和を生み出している事実に、私はいつも驚いてきた。>

医学生や助手として三年間、病院で働きたくさんの人間をみてきたことがのちの劇作家や作家としてやっていくのに非常に役立ったということを記している。生の人間との接触の体験ができ、ほとんどあらゆる感情を目撃できたと信じているという。

……人に没入せずを突き放しているかんじがするのはそのせいなのか?

実際、<医師としての修業が私の人間観を歪めさせたというのは、ありうる>とある。病院で見てきた人(大部分病気で貧しく無学だった)に対する思いがあるのだろう。また、自分の先入観に影響されないよう用心してきたともいう。


<私は生来ひとを信用しない。他人は私に好意的なことよりも悪意のあることをすると思う傾向がある。これはユーモアの感覚を持つ者が支払わねばならなぬ代償である。ユーモアの感覚を持つ者は人間性の矛盾を発見するのを好み、他人がきれい事を言っても、信用せず、その裏に不純な動機があるだろうと探すのだ。外見と中身の違いを面白がり、違いが見付からないときには、でっち上げようとする傾向さえある。ユーモア感覚を発揮する余地がないというので、真・善・美に目を閉ざしがちである。ユーモア感覚のある者はインチキを見つける鋭敏な目を持ち、聖人などの存在は容易には認めない。だが、人間を偏った目で見るのが、ユーモア感覚を持つために支払わねばならない高い代償であるとしても、価値ある埋め合わせもあるものだ。他人を笑っていれば、腹を立てないで済む。ユーモアは寛容を教えるから、ユーモア感覚があれば、ひとを非難するよりも、ニヤリとしたり、時に溜息をついたりしながら、肩をすくめるのを好む。説教するのは嫌いで、理解するだけで充分だと思う。理解するのは、憐れみ、赦すことであるのは確かだ。>


モームの作品群。内容はほとんど忘れている。

……これを機に再読してみようか(笑)。