桑原 武夫著 「論語」 ちくま文庫

論語といえば孔子。有名なものは諳んじて言えるものもある。その意味もだいたいわかる。


ではー。

……有名ではないものは?

……孔子の弟子は何人ぐらい?

……孔子の人となりは?


そのようなことは考えたこともなかったし、興味もなかった(失礼!)。この本を手にとったそもそものきっかけも著者に興味があったからー。


しかしー。


読んでいくうちに実に引き込まれた。孔子について、孔子と弟子との関係について。そして本文の解釈について。


それは著者の語り口によるところが大きいと思われる。


本書は『論語』のなかから、孔子の素顔が見たい><孔子の素顔をよりよく伝えていると思われる>と著者が判断されたところが、本文として載せられている(くわしくは本書所収の「私と『論語』を参照されたい)。


まず、本文が紹介される。次に読みくだし文。そして著者の説。しかし著者の考えを直ぐに述べるのではなく、過去の文献からさまざまな説を紹介し解説したうえで、著者の感想や考えが述べられるのである。


ちなみに先人の文献とは江戸時代の儒学研究家、伊藤仁斎荻生徂徠のもの。「古註」(魏の論語集解』、梁の論語義疏』、北宋論語正義』)、「新註」(南宋朱子つまり朱熹論語集注』)がひかれている。他にも巻末に載せられている文献から諸説が引用されている。


それらの説から著者の説へと導き出されるその過程を読むのが楽しかった。


ひとつの文章のひとつの言葉ひとつの文字をどう解釈するかで、その意味するところが全く変わってきてしまう。それらをていねいに吟味しつつ著者がその考えを断言するものもあれば、不明なままにするものがある。その説はいかがなものかとするものもある。主観的にならず、かといって堅苦しくなく本文の意味するところを説かれている。そのスタンスが個人的に好感がもてた。


また本書を読んで中島 敦著『弟子』を読んでみたくなった。『論語』には女性についての言及がほとんど皆無であるのだが唯一ふれている文(南子の章)がある。谷崎潤一郎著『麒麟』というのは、その南子との一件を題材にとったものだそうであり、『弟子』も同様の題材を用いられているそうである。


またこれから本書を読もうとする人には楽しみを減じてしまうのだが(だから以下は読まないで下さい 笑)、<子曰、巧言令色、鮮矣仁>の解釈は日本国民性の上に乗った時、はなはだ悪い影響を残したのではないかと著者は説かれている。孔子はこれについては<人生一般について言われたのではなく、官界、政界などにおいて下位者が上位の権力者に対するさいの態度について述べられたもの>と著者は説く。その是非は私には判断できかねるが他にも孔子の思惑とは少々ずれて解釈(日本において)されているものがありそうである。